北海道開拓と囚人道路

イントロダクション

▲JR上川駅前の周辺地図

▲JR上川駅前の周辺地図

まずは、みなさんの目の前の地図をご覧ください。

旭川から網走までを通っているのが国道39号線です。約213㎞の道のりです。最大の難所だった石北峠が開通したのは1957年(昭和32年)です。1960年(昭和35年)までは、遠軽町を通る山側の道(現在の国道333号線。北見峠を経由するルート)が国道39号線でした。しかし、石北峠の開通とともに1960年(昭和35年)に、国道39号線は、今の石北峠を経由するルートとなりました。

1954年(昭和29年)、洞爺丸台風が北海道を襲います。大雪山系では大量の木々が台風によってなぎ倒されました。上川町では、倒された木々を処理するために、木材バブルに沸きました。ホテル大雪が、創業者の西野目武夫によって開館したのも、1954年(昭和29年)でした。

伐採された大量の木々は丸太資材となり、国鉄の石北線を使って石狩・小樽港へ輸送されました。当時、輸送は鉄道からトラックへと徐々に変わろうとする時代でもありました。大雪山の木材は、石北峠を通って網走まで運び、船で本州に輸送されるようになりました。現在、開湯100年を超える層雲峡温泉の発展は、国道39号の開通とともに大きく飛躍したのです。

では、だれがこの道路を最初に作ったのか・・・

1章・明治維新から開拓時代の黎明期

明治時代、北海道開拓はどのような形で進んでいったのか。屯田兵・移民・アイヌ民族がどのような関わりを持ちながら北海道の基礎を形作ってきたのか。北海道開拓の歴史を紐解きながら、大雪山・層雲峡温泉の開拓史についてお話しします。

1870年(明治3年)、札幌に北海道開拓使が設置されます。初代長官は佐賀藩の鍋島直正です。1872年(明治5年)に監獄法が成立。1879年(明治12年)、内務省長官の伊藤博文が、流刑地として北海道に監獄を設置するよう説いて回しました。

▲「北海道開拓の村」に再現された、1863年(明治6年)に建築された「旧開拓使札幌本庁舎」

開国して間もない当時の日本は、西欧列強諸国に追いつき追い越せと富国強兵を進めていました。経済発展のためには資源の宝庫とされる未開地の蝦夷地の開拓が必要でした。

世界の列強がひしめき合っていた時代に、ロシア帝国は、シベリア・サハリン・カムチャツカを植民地とし、さらに不凍港を求めて南下政策を取っていました。明治政府はロシア帝国の脅威から蝦夷地を守るため、北海道の海辺から内陸に入る道路整備を計画します。当時の日本は新橋-横浜間に日本初の鉄道が施設された時代です。2014年に世界遺産に認定された富岡製糸場が設置されたのも、この頃のことです。

▲シベリア鉄道の路線図

1879年(明治12年)、明治政府は道路を開墾させるため、北海道に囚人を移送させる政策を始めます。多くは政治犯として逮捕された士族でした。未開地であった北海道に、政府が進める政策に反対運動を起こした政治犯を社会から隔離しておくことは、明治政府にとって好都合でした。また北海道開発のために道路工事の作業員として囚徒を使えば費用が安く上がるという利点もありました。そこで懲役刑12年以上の者を拘禁する集治監の設置を決め、樺戸集治監・空知集治監・釧路集治監が開庁します。明治23年釧路集治監の分監として網走に網走囚徒外役所が置かれることになります。

▲1890年に設置された「釧路監獄署 網走囚徒外役所」

北海道庁長官の岩村通俊は、札幌を起点に旭川から網走・釧路に至る道路の整備を決定します。岩村は、北海道全体の交通網を一挙に整備するための労働力として、道内各地の監獄の囚人たちを作業現場へ次々に送り込みました。奥地に入るためには、アイヌの道案内が必要でした。資材の運搬路となる道路を建設するため、道内各地でアイヌ民族に協力を求めた事が記録には残っています。

▲険しい山の中、道路を開拓する囚徒たちの様子

1888年(明治21年)、第2代北海道長官の永山武四郎は、急務であった北見道路(中央道路)の開削工事を進めるため、釧路集治監から網走へ約1200人の囚人が大移動しました。 網走囚徒外役所(のちの網走監獄)の誕生です。網走囚徒外役所が作られてからは、労働力として囚徒たちを服役させるために累計で約1400人が網走囚徒外役所へ送り込まれました。

当時、囚人たちの人権は無視されていました。「囚徒らがたとえ死んだとしても監獄費の経費節減になる」という思想がまかり通っていました。全員が1本の丸太を枕として眠ります。夜明け前の午前3時半の起床では、看守が大声で叫び、丸太枕を叩いて起こします。逃亡防止のために2人の足を鎖でつないで使役させられていました。看守たちは携帯したピストルやサーベル、長棒で囚徒たちを威嚇した。強制労働の苦痛に耐えきれず逃亡を謀った者は、見せしめのために看守にその場で切り殺されました。逃亡できたとしても、食糧を見つけることが困難な山中では食いつなぐことも出来ず、結局は作業場へ戻るしかありませんでした。

▲「博物館 網走監獄」で当時の道路開削の様子を再現

病死や惨殺されていった囚徒たちの屍は、そのまま現場近くへ捨てられて風雨にさらされました。やがて当時の仲間の囚人たちによって土を盛るようにかぶせられて埋葬されました。埋葬地は後に入植者らによって見つけられ、掘り起こされました。土に還りつつある人骨と、墓標の目印として置かれた鎖がそのまま出てきたことから鎖塚と呼ばれた。鎖でつながれたままの2人の白骨も発見されています。

犠牲者の遺体は、道路開削のために作られた仮監獄(飯場)の近くや道路脇に埋められました。1955年(昭和30年)以降、現在に至るまで各地で発掘。遺骨は墓地に改葬されるなどし供養されたが、未だに発掘されない遺体も多い。これら犠牲者の霊を弔うために、かつての『北見道路』沿いの各地には慰霊碑が建立されています。

▲北見市端野町にある鎖塚と供養碑

さて、北見側の道路建設は、1949年(明治24年)12月27日に完成し、北海道庁に引き渡された。これにより旭川~網走間の『北見道路』が全通。区間内には12カ所の官設の駅逓所(公設の宿泊所、人馬車継立所)が設けられました。

北見道路建設に伴う囚徒の犠牲者数は、はっきりと判っているだけでも211人となります。旭川~伊香牛間の犠牲者も加わるので犠牲者数は増えることになる。正式な人数は不明だが、おおよそ250人前後の囚徒犠牲者がでました。(他に看守4人の殉職者もある)この過酷な囚人労働は世論に大きな衝撃を与え、帝国議会においても取り上げられた。そして1895年(明治28年)以降、集治監の囚人を使った開拓は廃止されました。

その後北海道庁は北見国内の常呂原野と湧別原野の両原野に屯田兵村を開村する計画を立てます。1893年(明治26年)12月に湧別原野の殖民地が開放告示されたが、入植者は船で来た高知と加賀から来た団体にとどまりました。また常呂原野は入植者希望者が皆無という状態でした。両殖民地の開拓を促すはずの北見道路は多くの犠牲者を出して開通したが、開通直後は通る人は極端に少ない状態が続いていました。

しかし、この北見道路に沿った形で鉄道の建設計画が持ち上がり、数年後に国鉄石北本線の完成を見る。この鉄道建設の為の建設資材の輸送路や集積所として北見道路はその重要性を増していくこととなっていきます。

第2章・開拓中期 駅逓の開設

▲当時の駅逓の様子

駅逓を開設した目的は人馬継立、宿泊です。その他に、貨物の運送や郵便取り扱いをするところもあったようです。主に旅人へのサービスを行うための施設であり、旅館+運輸+郵便を担っていました。北海道開拓初期の時代に、道内各地に駅舎が建造され、全道で200箇所以上もの駅逓所があったとされています。

基本的に1郡に1駅あって、隣の駅逓所との距離は4里~5里。駅逓所には、馬が数頭常備、人足も数名おり、次の駅逓所まで送り届けました。当時は鉄道がない時代で、開拓もそれほどなされていない地でしたので、街道沿いに立つこういった施設は、輸送・旅には欠かせませんでした。駅逓所は半官半民・請負制で開設されていきました。

運営管理を任された人は「取扱人」と呼ばれ、土地と建物や馬が与えられました。運営にかかる諸経費は、開拓使が廃止されるまでの間は開拓使から提供されていたようですが、駅逓所が増えてくると経費削減も行われたようです。継立には料金がかかった、というのはあたりまえで、荷物の量の制限や深夜割増、雪害時の料金設定もあったようです。また、人足料金と馬料金も、それぞれ料金が異なりました。

駅逓所は、当初は違う名称でした。江戸時代に運上屋、後に会所という似たような制度がありました。それが明治時代に廃止されることになった際、北海道では開拓のためにまだまだ必要とされ、継続されることになりました。そのために駅逓規則も整備されました。最初は「本陣」と呼ばれ、続いて旅篭屋並、旅篭屋と改称され、最終的に「駅逓」におさまりました。

駅逓所を中心として集落が出来上がるというよりは、駅逓所1棟だけポツンとあることも多いのが特徴です。駅逓開設ラッシュは、北海道の開拓とともに最盛期を迎えますが、道内で開拓が進んでくると、今度は鉄道開通が各地で見られるようになり、次第に駅逓所はその役割を失い、閉鎖されていきます。そして最終的に1948年、昭和時代前期に、駅逓制度は廃止されることになりました。北広島市にあり、クラーク博士が「Boys, be ambitious」という瞑眩を残したことで有名な島松駅逓所は国史跡指定となっています。道民なら、一度は道内の最初期の交通の歴史に触れてみましょう。

紋別地方ではこの旧上藻別駅逓所(旧上藻鼈駅逓所)が、唯一現存する貴重な駅逓所です(道内に現存する10ヶ所の駅逓所のひとつ)。

▲現存する数少ない駅逓「上藻別駅逓所」

上藻別駅逓所は、丸瀬布寄りにあった鴻之舞金山が全盛だった1940年(昭和15年)に駅逓業務を廃止し、経営者の名を採って高地旅館として1949年(昭和24年)まで営業。
その後は住宅として使われていましたが、上藻別駅逓保存会(鴻之舞鉱山OBたちが中心となった組織)が修復保存し、資料館として運営しています。

▲北見市二見ヶ岡にある「国道創設殉難慰霊の碑」

二見ヶ岡・国道創設殉難慰霊の碑、北海道開拓100年にあたって何をするか決まらずにいた時、慰霊碑の建立運動をしていた留辺蘂にある白龍山遍照院の隆弘尼僧が、町村会に訴え満場一致で建立が決まりました。碑には囚人の埋葬地と思われる場所から集められた各地の土がおさめられています。

▲網走市にある第1号駅逓「越歳駅逓」跡

1950年( 明治25年)3月15日、網走の一号越歳駅逓をはじめとして旭川の12号駅逓まで中央道路沿いに12カ所、駅逓が順次設置されました。駅逓とは、北海道にあまり人が住んでいない時代に、開拓のために北海道に渡ってくる人や旅をしている人に、宿泊所として人や馬を貸し出したり、更に郵便業務の取り扱いを行っていました。開拓者たちの寄り合い場であるなど、駅逓の存在意義は北海道の開拓とは切り離すことのできない関係にあったのです。

とりわけ、越歳一号駅逓は、屯田兵や開拓移民が網走湖を船で渡り、内陸へ入るための最初の第一夜であり、旭川方面からの旅では最後の宿となる重要な役割を果たしました。1912年(大正元年)網走~北見間に鉄道が開通すると同時に、駅逓利用者は減り大正2年駅逓は廃止され、その役目を終えました。

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